こちらのツイートきっかけで、元記事を追ってみました。

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか しくみも大切、生徒のやる気が大切 

元記事もとても面白かったので、ぜひご一読ください。

ぼくはというと、せっかくなので違う観点から「教えない授業」というものを語ってみたいと思います。 


20160817



1、日常的な思考停止状態からいち早く脱却すべし 

進学校に通う高校生は、常日頃から膨大な量の授業を、かなりの早さで受けています。

特に大分では顕著なのですが、年々学校による拘束時間は長くなり、相対的に学校外での勉強時間は少なくなっています。

さらには、そんな少ない勉強時間の大半を、学校から強制される「課題」と非効率的な「予習」に割かなければならないという状況。

時間に余裕がある中での話ならともかく、こうなると「課題」や「予習」は「こなさなければ怒られる」という「作業」以外の何物でもありません。

大半の生徒が本当に理解しているのかという点を追求することなく、紙面を黒く塗りつぶすことに終始してしまうのです。目の前の問題や、自分に何が足りないのかを思考することなく、ただただ手を動かします。

まさに、思考停止状態。

内容や分量が浅い中学生の勉強であれば、ただただ量をこなすだけでもなんとかなってしまいますが、多くの高1生が2学期あたりからうすうす感じ始めるように、思考停止状態で淡々と「学校」をこなしていくだけでは、思うような結果にはたどり着けないのです。

現状を打開したければ、「思考停止状態」をいち早く脱却し、自分で思考し、本当に必要なことを実践していくしかありません。


2、高校生に対する塾としての関わり方

このような問題がある中で、塾(というか講師であるぼく、塾としてのリット)はどのように高校生に向き合っていくべきか。

今の段階で導き出した答えは、「徹底して自学のサポートを行ない、自分で思考する学習へと導く」というもの。

ぼくとしても、「もっとガッチリとした授業を行なったほうがいいのでは」と考えることがないわけではありません。

しかし現状で、高校生たちが膨大な学校の負担を抱える中、学校が終わった後の限られた「自学可能な時間」に、さらなる授業をいれることがどう考えてもいいものに思えないのです。

学校ほど授業時間を確保できるわけではありませんし、疲れた身体で一方的に授業を受けて、それすらも無駄になってしまう可能性があります。

ぼーっとしかねない映像授業なんてもってのほか。

とはいえ、ただ自分でさせておけばいいかというと、そういうわけにもいきません。

生徒によっては、自分でやっててはかどらないと、そのまま思考停止状態となってしまいます。

結局のところ、生徒のやる気や意欲に左右される部分は、どうしても避けられないのです。

それを踏まえたうえで、塾としての形作りを考えること。

最後はこれに尽きます。



3、 以上を踏まえたうえでの所感

あたりまえですが、「自分で思考する」というラインに立つためには、その時点である程度の学力が求められます。

思考するための蓄えがない人が、自分だけの頭でモノを考えることはできないのです。

となると、塾としてどういうスタンスをとるかということは、どのような生徒を迎え入れるかということにも関わってきます。

自分で思考ができない状態の生徒ばかり集まってくると、授業をするしかありません。

これでは結局学校の延長線上であり、自分で思考するという方針を打ち出せない。

では、ある程度思考できる程度の学力を持ったせいとしか受け入れないかというと、それもおかしな話で合って。ニーズのある所にはできるだけこたえたいと思うのが塾屋の性分でもあります。

ですが実際のところ、ある基準値に達することができていないと高校の勉強を理解していくことが本当に厳しいという現実がある以上、最終的にはどこかで線引きされることも考えておかねばなりません。

特にぼくの場合、1人でやっていくという形である限り、抱えることのできる量は限られています。 

もちろんすぐに答えの出ることではありませんが・・・

とにもかくにも、いかにして自分で考えるという状態に導くことができるのか。

今現在、これが最も重要なことだと感じています。 
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